人と獣と / a person and a beast




 密林。
 人の手の及ばぬ、獣たちの世界。
 その中で、一人の人間が獣と向かい合っている。
 運がなかった。
 普通ならそう思うべきだろう。
 だが、今回は少しばかり様子が違う。

「グオォゥッ!!」

 襲いかかるべき獣が動こうとしない。
 威嚇するかのように、唸り声をあげ男の様子を窺っている。

「…………」

 それに対し、男は無反応。
 畏れているのではなく、意に介していない。
 悠然と獣を眺めている。

「グアアァッ!!」

 獣が再び唸り声をあげる。
 焦れている。
 獣を畏れない生き物に、何の反応もないことに。
 焦れている。
 過去の獲物はこうではなかった。
 獣の姿を見ただけで戸惑い逃げまどっていたというのに……。

「どうした、来ないのか?」

 唐突に男が口を開く。
 からかうような口調。
 歪められた唇は、明らかに獣を蔑んでいる。
 明確なる悪意。
 それは獣に最後の一押しを与えた。

「グゥオァァッッッァアッ!!!!」

 咆吼。
 野生動物特有の敏捷さで獣が地を駆ける。
 小細工などない。
 巨体とその膂力にものを謂わせた、正面から相手をたたきつぶす為の動き。
 男はなんの動きも見せない。

 あと三歩。
 男の足がわずかに開く。

 あと二歩。
 男の腰が沈む。
 構えた。
 だが、遅い。
 この時点で、自分の突進を避けるすべはない。
 獣は勝ちを確信する。
 これで、血肉を味わうことが出来る。

 あと一歩。
 獣は考えるべきだった。
 男が自分に怯えない訳を。
 そして、何故に自分がその男に襲いかかれなかったか、を。

 零歩。
 衝撃――は、なかった。
 ただ足が一歩も動かない。
 獣は正面を……否、男を見た。
 男は片手で――そう片手で獣の突進を受け止めていた。
 一瞬獣の動きが止まる。

「はっ、つまらんな」

 蔑み。
 それだけは十分に伝わった。

「グアアァッ!?」

 怒りに任せ、獣は前足を振おうとした。
 人間ごとき自分の一撃を食らえば堪えることなど出来ない。
 数秒前の事実を怒りに掻き消され、獣が再び動こうとした。

「遅い」

 だが、前足を上げるより早く、男の身体が動く。
 一閃。
 右前足が宙に舞う。
 一拍遅れて、さらに鮮血が舞った。
 緑が赤く染まる。
 更に一拍。

「グゴアアオアオオオォァッァァツ!!!!」

 獣の痛み故の吠声が響き渡った。
 獣は失った右前足の痛みを晴らすかのように、左前足を振り回す。
 だが、男はすでに離れている。
 無駄な動き。
 それが獣に致命的な隙を作る。

「熊は、不味いんだがな」

 そう呟くと、男は自ら踏み込んでいく。

 一足。
 それだけの動きで男は獣を射程に捕える。

 一閃。
 男が拳を振う。
 拳は獣の頭部があるべき場所をあっさりと通り過ぎていく。
 びくん、と獣の身体は一度だけ痙攣すると、そのまま地面に倒れ伏す。
 それがこの密林の主とも言うべき人喰い熊の最後だった。


………………
…………
……


「やはり不味いな。煮ても焼いてもくえんとはこのことだ」

 そう吐き捨てながら、男は焼いた熊の肉を口にする。
 猛烈な血の匂いも男は気にならないらしい。
 
「こんなことなら、此奴が別の獲物を狩るまで待つべきだったな。修行の足しになるかと思えば、そうでもない。せっかく女断ちをしてまで来たというのに……まったく、骨折り損だ」

 そう言う間にも、熊の肉はどんどんと消費されていく。
 結局の所、どうでも良いのだ。

「つまらんな。人喰い熊とやらに期待して、こうして森に入っても面白いこともない」

「まったくもってつまらない世の中だ」

 そう面白ければ、どうでも良いのだ。